2016-03-17

穂別・オサワから夕張・楓への古道

Introduction :
まず背景をネットから。「北海道駅前観光案内所」さんのオサワ信号所の記載より。出典は町史だと思いますけれども。
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入植者達は互いに助け合って困窮した生活をしのいでいたが,しだいに絶望感が漂いはじめたあるとき,楓のほうから汽笛が聞こえてきたという。「汽笛がこんな近くに聞こえるのだから,この山を越えれば鉄道が走っているのではないか!」。開拓民達は期待に胸を膨らませ,明治39年3月,さっそく探検隊を 結成して山中へと入った。しかし,人跡未踏の山の中である。背丈より高い藪に覆われ見通しはまったくきかず迷うこと3日,とうとう駅を発見できないうちに 食料が尽きて村に引き返した。
これにも屈せず,隊員を4名から6名に増強して再度山に分け入り,探検すること4昼夜におよんだが,またも方向を失い食糧も尽きて,一行は大木の下 に腰を下ろして茫然とした。しかし天は彼らを見放さなかった。そのとき汽笛一声虚空を破って響きわたり,一行は息を吹き返して山をすべり降りた。そこは楓 炭鉱で,炭鉱事務所を訪問し事情を話したところ厚く歓迎され,楓に来たという証明書を書いてもらって村へ持ちかえったという。
すぐに部落民総出で道路開削工事に取り掛かったが,測量中に道を失うなど難航に難航を重ね,馬も通れる道ができたのは4年後のことであった。
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また、町史を基にした「稲里小(中)学校のあゆみ」 のページによれば、
明治39年  長和の人が夕張(ヌタポマナイ)までの道路を造る。
明治42年  長和と夕張(ヌタポマナイ)までの道ができ、夕張と長和、和泉が道路でつながる。
明治43年  長和の人が長和と夕張(楓駅)までの道を馬が通れるようにする。
        稲里と夕張の間の道を広げる。
稲里と夕張の間の道というのは大峠の古道であり、それとは別に記載してあることから、長和と楓との間の道というのは旧版地形図にある楓峠の古道を指してます。この道の位置関係(道の出口に楓炭鉱と登川駅)からも裏付けされます。また、この記載にあるものと同じかどうかは分からないが、今回の探索では峠のピークを少し下がった所にスッパリ人為的に切った跡のある古い大木もありました。
これはずっと後の年代となる昭和33年測量、昭和44年発行の「紅葉山」。

それでは実際の探索に移りましょう。ログを見て頂ければ分かりますが、今回は楓峠のピークにも到達できませんでした。

新夕張駅を午前9時ちょうどに出て歩き続け、ルベシップ林道ゲートに10時半、ルベシップは幸いに大型のスノーモービルによって固められていて、ツボ足でも埋まらずに進めました。ここが分岐で右に分かれます。地図のA地点。ここでスノーシュー装着。
地図のB地点。左側が道で、川を挟んで右側には橋の跡でしょうか、丸太が並んでいるのが昔の人跡を感じられます。
 C地点。ここで幅の広い林道作業道が右に直角に折れ、積雪していても荒れた道となります。
 2回ほど川を渡って進んだその先でさらに左右に川が分かれます。これは右側。何もなし。

最初は気づかずに、もう終わりか?と思いましたが、左の川に沿うように上がっていく道筋が。ここから急に勾配がかかって山道となっていくので、まさかと思ったのです。地点D。ちなみにログでウロウロしているのは、帰路で他の道の可能性を探って回っただけです。


地点E。道が二股に分かれますが、結果的にはどちらでも合流して1本に。ただし分かりやすいのは川に沿った左で、右は途中で窪地にぶつかって道が消えた後、そこから出る形で続きます。おそらく数軒の小集落があったのでしょう。

これはEとFの間の地点。左右に分かれますが、右の道もすぐ左折して並行し合流します。



 地点G。数軒は家が置ける広さの平場に古い巨木の切り株。

その巨木広場で先ほど分岐した道がこのように合流してきます。


この後、川に沿う形になってから道が崩落途絶します。それで斜面を上がって細い稜線に出て進むと、川から上がってきた道が。帰りは道に沿って降りました。

ちょっと険しくなってきましたね。

H地点。ギリギリまで進もうとしましたが、足元が氷面となってて滑り気味に不安定なのに気付き、静かに体の力を抜く感じで体を落とし、そのまま手刀を雪面に突き刺す。それをアンカー(錨)にして体勢を反転、整えながら後退して撮りました。写真にその跡が残ってます。
この右側斜面は15mくらいストンと落ちているし、前方の谷間は崩落して深く切れ込んでいたので、これ以上は進めないと判断。引き返しにかかります。峠の頂上まで距離にして200mを切ってました。

川に沿った方に道はないのか?と少し戻って入ってみたのが I 地点。
その谷間の斜面を見上げて。稜線まで力技で登って行っても、帰りが危険になるだけですしね。「登山」じゃないので、到達する事だけに意味があるわけではない。

帰りも他の道の痕跡が無いかとチェックしながら歩いてはきたのですが、見つからず。ルベシップ林道に戻ると猛吹雪となったので良いタイミングでした。楓炭鉱跡の鉱泉にて。
夏場は見えなかった鉱泉脇の坑口。鉱泉右側の谷に入ればもう1つの坑口が地形図にありますが、川の渡渉が面倒なので今回はパス。


少しでも正確なものが欲しかったので昭和の地形図にしましたが、それでも現在のものにピタリとは合いませんね。しかし、途中のF地点あたりで谷筋が1つ違ってきてるのが分かります。現地ではこれしかないと思って進んでいたのですが。
ただ、道の跡はたどっていたわけで、これは恐らく、道が崩落断絶して別ルートを開削したという事があったのではないかと。町史の記述では馬が通れる道とありましたが、馬車が通れる道とは書いてないですね。地形図では道は滑らかですが、現地の地形はなかなかに険しいものでした。測量が少し粗いのが残念です。

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