それでは北部砲台の続きです。ここは道と並行した通路があり、そこにも施設跡があります。
斯加24cm加農砲跡。
ここも加農砲の跡ですが、毒ガスの製造が始まると毒ガス(ルイサイト)のタンクが置かれました。その台座が残っています。
通路奥の地下兵舎跡。この近くに毒ガス用の発電機関舎があったそうです。
それでは、山を登って中部砲台へ。
展望台には行きませんでしたが、何らかの施設があったんでしょうね。
ここは先ほど上から見下ろした場所。
ぐるっと回って降りてきたので、この階段で近道して戻ります。
山腹にもこんな遺構が。
港から離れた誰もいないような所でもウサギが殺到してきます。時間がないので相手できないし自転車を素早く動かせない。
下に降りてきて、長浦毒ガス貯蔵庫跡。1929年から終戦までイペリットとルイサイトの製造。年間生産量は多い時で1500トン。15年間の総生産量は6616トン。内部が黒いのは、終戦時の処理で火炎放射器で焼いた跡です。
当時は、建物の前に高さ3~4mの小山を作り建物も迷彩色で塗って隠蔽していたそうです。
少し移動して、こちらも毒ガス貯蔵庫跡。
台座が残っています。缶1つで毒ガス10トン。ここだけで80トン貯蔵できたそうです。
ここは日本庭園跡。左上に小さい通路と橋が。
三軒家毒ガス貯蔵庫跡。ここはイペリットで、工場から直接タンクまで管を通して送り込まれていました。
毒ガスの研究所と薬品庫の跡。
こちらはその左隣にある、検査工室。
小山を登りまして、芸予要塞時代にサーチライトが置かれていた、南部照明所跡。
この時点で船の出航7分前。幹部用防空壕の入り口を撮ろうとしましたがなぜかAFがなかなか合わず、大した物件ではないのでパスしました。
これで大体、一通りではないでしょうか。船の桟橋は行先によって数百m離れているので要注意です。チケットはあったので、自転車に乗ったままフェリーに突入しました。
ここでの持ち時間は2時間でしたが、あと1時間くらいあればゆったり一息入れられましたね。当初は寄れると思っていた毒ガス資料館にも行けませんでした。
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