最果ての鉄路を往く~北の鉄道写真展~ を見に、天塩中川駅まで行ってきました。
3月25日。ダイヤ改正の前日です。翌日から地方の普通列車が削減され、例えば札幌から名寄以北へは滞在時間が短くなることで実質、普通列車での日帰りが不可能になります。その廃止となる便に乗って天塩中川に到着。午後2時半。
カフェもやっていたので、オリジナルブレンドを。
天塩弥生駅にもそのうち行きたい。
2時間あったので、どんな所かちょっと散歩に。
街中は、ハッキリ言って何もありません。住宅もおおむね新しくて、歴史的建造物もなし。
これ、現役バリバリ営業中のパチンコ屋です。
午後4時40分の列車で帰りました。
2016-03-23
探索失敗! 豊平峡は再び炭酸水の夢をみるのか?
クマに遭遇して引き返すハメになりました。
まずはイントロから。
かつて豊平峡には炭酸水の湧く場所があり、天然のサイダーが飲めたそうです。旧版地形図には森林軌道のルートも載っており、現在の豊平峡大橋のあたりまで延びているのがわかります。
そして現在。
豊平峡ダムの貯水率は5%。メンテナンスのためだと思いますが、常時8割以上をキープしているダムなので、めったにないチャンス。そう思って行ったものの。
まず最初の誤算は、ダムサイトから林道沿いにアプローチすれば楽勝と思っていたのに、冬季閉鎖とやらで札幌岳登山道入り口の所でゲートが閉まっていて、関係者以外は歩行者も立ち入り禁止。監視カメラもあるだろうしねぇ。
登山道に入ってから交差する林道に入って(最初から登山道脇の林道に入っても同じ)、大きく回り込む形でアプローチしようとしたところ(地図には無いが、実際には途中からダム連絡林道の名称で続いている)、ダム脇林道まであと400mというところで。
本当に直近だと分かる生々しい足跡で、私が谷をぐるっと回っている間にその足音で逃げたのでしょう。気配は感じられなかった。この逃げた方向が行先と同じで、しかも私には武器が何もない。散歩程度の探索と思っていたのに結構な勾配のアップダウンを強いられて昼食前で息も上がり気味。
直接遭遇だけは避けないとアカン。弱腰を見て取られれば反転攻勢に出るかもしれないのでね。
帰りは少し休んで息を整えながら、登山道交点で昼食を取り、冷水沢の写真を撮りながら午後3時に登山道入り口。来る時には何台か車も止まってましたが、私が最後の下山者のようでした。
もう少し。あと一歩。「ちくしょう」の一言でございます。久々に豊平峡温泉に入って帰りました。
ここは、行けそうでなかなか行けませんよ。
まずはイントロから。
かつて豊平峡には炭酸水の湧く場所があり、天然のサイダーが飲めたそうです。旧版地形図には森林軌道のルートも載っており、現在の豊平峡大橋のあたりまで延びているのがわかります。
そして現在。
豊平峡ダムの貯水率は5%。メンテナンスのためだと思いますが、常時8割以上をキープしているダムなので、めったにないチャンス。そう思って行ったものの。
まず最初の誤算は、ダムサイトから林道沿いにアプローチすれば楽勝と思っていたのに、冬季閉鎖とやらで札幌岳登山道入り口の所でゲートが閉まっていて、関係者以外は歩行者も立ち入り禁止。監視カメラもあるだろうしねぇ。
登山道に入ってから交差する林道に入って(最初から登山道脇の林道に入っても同じ)、大きく回り込む形でアプローチしようとしたところ(地図には無いが、実際には途中からダム連絡林道の名称で続いている)、ダム脇林道まであと400mというところで。
本当に直近だと分かる生々しい足跡で、私が谷をぐるっと回っている間にその足音で逃げたのでしょう。気配は感じられなかった。この逃げた方向が行先と同じで、しかも私には武器が何もない。散歩程度の探索と思っていたのに結構な勾配のアップダウンを強いられて昼食前で息も上がり気味。
直接遭遇だけは避けないとアカン。弱腰を見て取られれば反転攻勢に出るかもしれないのでね。
帰りは少し休んで息を整えながら、登山道交点で昼食を取り、冷水沢の写真を撮りながら午後3時に登山道入り口。来る時には何台か車も止まってましたが、私が最後の下山者のようでした。
もう少し。あと一歩。「ちくしょう」の一言でございます。久々に豊平峡温泉に入って帰りました。
ここは、行けそうでなかなか行けませんよ。
2016-03-17
国鉄旧線 楓~新夕張
ついでだったので、路線跡を歩いてみました。この先の路線跡は登川まで国道274に使われていますし、新夕張側も国道とクロスする直前で築堤がカットされて消滅しています。
木の様子からおそらくさらに古い路線があったのでしょう。左側にもう1つ路盤が分かれています。
その並行する路盤は道路ではなく鉄路であった事を示すのが、レンガでできた暗渠。
川を渡る所で途切れているので、国道に出て向こう側へ。
途中からぷっつりと市道に吸収利用されています。
それで終わりかと思いきや、国道274とクロスする直前で築堤と橋脚が。
序盤に少し崩れて細くなってる箇所がありますが、注意すればさほど問題ない路盤散歩です。
木の様子からおそらくさらに古い路線があったのでしょう。左側にもう1つ路盤が分かれています。
その並行する路盤は道路ではなく鉄路であった事を示すのが、レンガでできた暗渠。
川を渡る所で途切れているので、国道に出て向こう側へ。
途中からぷっつりと市道に吸収利用されています。
それで終わりかと思いきや、国道274とクロスする直前で築堤と橋脚が。
序盤に少し崩れて細くなってる箇所がありますが、注意すればさほど問題ない路盤散歩です。
穂別・オサワから夕張・楓への古道
Introduction :
まず背景をネットから。「北海道駅前観光案内所」さんのオサワ信号所の記載より。出典は町史だと思いますけれども。
----------------
入植者達は互いに助け合って困窮した生活をしのいでいたが,しだいに絶望感が漂いはじめたあるとき,楓のほうから汽笛が聞こえてきたという。「汽笛がこんな近くに聞こえるのだから,この山を越えれば鉄道が走っているのではないか!」。開拓民達は期待に胸を膨らませ,明治39年3月,さっそく探検隊を 結成して山中へと入った。しかし,人跡未踏の山の中である。背丈より高い藪に覆われ見通しはまったくきかず迷うこと3日,とうとう駅を発見できないうちに 食料が尽きて村に引き返した。
これにも屈せず,隊員を4名から6名に増強して再度山に分け入り,探検すること4昼夜におよんだが,またも方向を失い食糧も尽きて,一行は大木の下 に腰を下ろして茫然とした。しかし天は彼らを見放さなかった。そのとき汽笛一声虚空を破って響きわたり,一行は息を吹き返して山をすべり降りた。そこは楓 炭鉱で,炭鉱事務所を訪問し事情を話したところ厚く歓迎され,楓に来たという証明書を書いてもらって村へ持ちかえったという。
すぐに部落民総出で道路開削工事に取り掛かったが,測量中に道を失うなど難航に難航を重ね,馬も通れる道ができたのは4年後のことであった。
----------------
また、町史を基にした「稲里小(中)学校のあゆみ」 のページによれば、
明治39年 長和の人が夕張(ヌタポマナイ)までの道路を造る。
明治42年 長和と夕張(ヌタポマナイ)までの道ができ、夕張と長和、和泉が道路でつながる。
明治43年 長和の人が長和と夕張(楓駅)までの道を馬が通れるようにする。
稲里と夕張の間の道を広げる。
稲里と夕張の間の道というのは大峠の古道であり、それとは別に記載してあることから、長和と楓との間の道というのは旧版地形図にある楓峠の古道を指してます。この道の位置関係(道の出口に楓炭鉱と登川駅)からも裏付けされます。また、この記載にあるものと同じかどうかは分からないが、今回の探索では峠のピークを少し下がった所にスッパリ人為的に切った跡のある古い大木もありました。
これはずっと後の年代となる昭和33年測量、昭和44年発行の「紅葉山」。
それでは実際の探索に移りましょう。ログを見て頂ければ分かりますが、今回は楓峠のピークにも到達できませんでした。
新夕張駅を午前9時ちょうどに出て歩き続け、ルベシップ林道ゲートに10時半、ルベシップは幸いに大型のスノーモービルによって固められていて、ツボ足でも埋まらずに進めました。ここが分岐で右に分かれます。地図のA地点。ここでスノーシュー装着。
地図のB地点。左側が道で、川を挟んで右側には橋の跡でしょうか、丸太が並んでいるのが昔の人跡を感じられます。
C地点。ここで幅の広い林道作業道が右に直角に折れ、積雪していても荒れた道となります。
2回ほど川を渡って進んだその先でさらに左右に川が分かれます。これは右側。何もなし。
最初は気づかずに、もう終わりか?と思いましたが、左の川に沿うように上がっていく道筋が。ここから急に勾配がかかって山道となっていくので、まさかと思ったのです。地点D。ちなみにログでウロウロしているのは、帰路で他の道の可能性を探って回っただけです。
地点E。道が二股に分かれますが、結果的にはどちらでも合流して1本に。ただし分かりやすいのは川に沿った左で、右は途中で窪地にぶつかって道が消えた後、そこから出る形で続きます。おそらく数軒の小集落があったのでしょう。
これはEとFの間の地点。左右に分かれますが、右の道もすぐ左折して並行し合流します。
地点G。数軒は家が置ける広さの平場に古い巨木の切り株。
その巨木広場で先ほど分岐した道がこのように合流してきます。
この後、川に沿う形になってから道が崩落途絶します。それで斜面を上がって細い稜線に出て進むと、川から上がってきた道が。帰りは道に沿って降りました。
ちょっと険しくなってきましたね。
H地点。ギリギリまで進もうとしましたが、足元が氷面となってて滑り気味に不安定なのに気付き、静かに体の力を抜く感じで体を落とし、そのまま手刀を雪面に突き刺す。それをアンカー(錨)にして体勢を反転、整えながら後退して撮りました。写真にその跡が残ってます。
この右側斜面は15mくらいストンと落ちているし、前方の谷間は崩落して深く切れ込んでいたので、これ以上は進めないと判断。引き返しにかかります。峠の頂上まで距離にして200mを切ってました。
川に沿った方に道はないのか?と少し戻って入ってみたのが I 地点。
その谷間の斜面を見上げて。稜線まで力技で登って行っても、帰りが危険になるだけですしね。「登山」じゃないので、到達する事だけに意味があるわけではない。
帰りも他の道の痕跡が無いかとチェックしながら歩いてはきたのですが、見つからず。ルベシップ林道に戻ると猛吹雪となったので良いタイミングでした。楓炭鉱跡の鉱泉にて。
夏場は見えなかった鉱泉脇の坑口。鉱泉右側の谷に入ればもう1つの坑口が地形図にありますが、川の渡渉が面倒なので今回はパス。
少しでも正確なものが欲しかったので昭和の地形図にしましたが、それでも現在のものにピタリとは合いませんね。しかし、途中のF地点あたりで谷筋が1つ違ってきてるのが分かります。現地ではこれしかないと思って進んでいたのですが。
ただ、道の跡はたどっていたわけで、これは恐らく、道が崩落断絶して別ルートを開削したという事があったのではないかと。町史の記述では馬が通れる道とありましたが、馬車が通れる道とは書いてないですね。地形図では道は滑らかですが、現地の地形はなかなかに険しいものでした。測量が少し粗いのが残念です。
まず背景をネットから。「北海道駅前観光案内所」さんのオサワ信号所の記載より。出典は町史だと思いますけれども。
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入植者達は互いに助け合って困窮した生活をしのいでいたが,しだいに絶望感が漂いはじめたあるとき,楓のほうから汽笛が聞こえてきたという。「汽笛がこんな近くに聞こえるのだから,この山を越えれば鉄道が走っているのではないか!」。開拓民達は期待に胸を膨らませ,明治39年3月,さっそく探検隊を 結成して山中へと入った。しかし,人跡未踏の山の中である。背丈より高い藪に覆われ見通しはまったくきかず迷うこと3日,とうとう駅を発見できないうちに 食料が尽きて村に引き返した。
これにも屈せず,隊員を4名から6名に増強して再度山に分け入り,探検すること4昼夜におよんだが,またも方向を失い食糧も尽きて,一行は大木の下 に腰を下ろして茫然とした。しかし天は彼らを見放さなかった。そのとき汽笛一声虚空を破って響きわたり,一行は息を吹き返して山をすべり降りた。そこは楓 炭鉱で,炭鉱事務所を訪問し事情を話したところ厚く歓迎され,楓に来たという証明書を書いてもらって村へ持ちかえったという。
すぐに部落民総出で道路開削工事に取り掛かったが,測量中に道を失うなど難航に難航を重ね,馬も通れる道ができたのは4年後のことであった。
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また、町史を基にした「稲里小(中)学校のあゆみ」 のページによれば、
明治39年 長和の人が夕張(ヌタポマナイ)までの道路を造る。
明治42年 長和と夕張(ヌタポマナイ)までの道ができ、夕張と長和、和泉が道路でつながる。
明治43年 長和の人が長和と夕張(楓駅)までの道を馬が通れるようにする。
稲里と夕張の間の道を広げる。
稲里と夕張の間の道というのは大峠の古道であり、それとは別に記載してあることから、長和と楓との間の道というのは旧版地形図にある楓峠の古道を指してます。この道の位置関係(道の出口に楓炭鉱と登川駅)からも裏付けされます。また、この記載にあるものと同じかどうかは分からないが、今回の探索では峠のピークを少し下がった所にスッパリ人為的に切った跡のある古い大木もありました。
これはずっと後の年代となる昭和33年測量、昭和44年発行の「紅葉山」。
それでは実際の探索に移りましょう。ログを見て頂ければ分かりますが、今回は楓峠のピークにも到達できませんでした。
新夕張駅を午前9時ちょうどに出て歩き続け、ルベシップ林道ゲートに10時半、ルベシップは幸いに大型のスノーモービルによって固められていて、ツボ足でも埋まらずに進めました。ここが分岐で右に分かれます。地図のA地点。ここでスノーシュー装着。
地図のB地点。左側が道で、川を挟んで右側には橋の跡でしょうか、丸太が並んでいるのが昔の人跡を感じられます。
C地点。ここで幅の広い林道作業道が右に直角に折れ、積雪していても荒れた道となります。
2回ほど川を渡って進んだその先でさらに左右に川が分かれます。これは右側。何もなし。
最初は気づかずに、もう終わりか?と思いましたが、左の川に沿うように上がっていく道筋が。ここから急に勾配がかかって山道となっていくので、まさかと思ったのです。地点D。ちなみにログでウロウロしているのは、帰路で他の道の可能性を探って回っただけです。
地点E。道が二股に分かれますが、結果的にはどちらでも合流して1本に。ただし分かりやすいのは川に沿った左で、右は途中で窪地にぶつかって道が消えた後、そこから出る形で続きます。おそらく数軒の小集落があったのでしょう。
これはEとFの間の地点。左右に分かれますが、右の道もすぐ左折して並行し合流します。
地点G。数軒は家が置ける広さの平場に古い巨木の切り株。
その巨木広場で先ほど分岐した道がこのように合流してきます。
この後、川に沿う形になってから道が崩落途絶します。それで斜面を上がって細い稜線に出て進むと、川から上がってきた道が。帰りは道に沿って降りました。
ちょっと険しくなってきましたね。
H地点。ギリギリまで進もうとしましたが、足元が氷面となってて滑り気味に不安定なのに気付き、静かに体の力を抜く感じで体を落とし、そのまま手刀を雪面に突き刺す。それをアンカー(錨)にして体勢を反転、整えながら後退して撮りました。写真にその跡が残ってます。
この右側斜面は15mくらいストンと落ちているし、前方の谷間は崩落して深く切れ込んでいたので、これ以上は進めないと判断。引き返しにかかります。峠の頂上まで距離にして200mを切ってました。
川に沿った方に道はないのか?と少し戻って入ってみたのが I 地点。
その谷間の斜面を見上げて。稜線まで力技で登って行っても、帰りが危険になるだけですしね。「登山」じゃないので、到達する事だけに意味があるわけではない。
帰りも他の道の痕跡が無いかとチェックしながら歩いてはきたのですが、見つからず。ルベシップ林道に戻ると猛吹雪となったので良いタイミングでした。楓炭鉱跡の鉱泉にて。
夏場は見えなかった鉱泉脇の坑口。鉱泉右側の谷に入ればもう1つの坑口が地形図にありますが、川の渡渉が面倒なので今回はパス。
少しでも正確なものが欲しかったので昭和の地形図にしましたが、それでも現在のものにピタリとは合いませんね。しかし、途中のF地点あたりで谷筋が1つ違ってきてるのが分かります。現地ではこれしかないと思って進んでいたのですが。
ただ、道の跡はたどっていたわけで、これは恐らく、道が崩落断絶して別ルートを開削したという事があったのではないかと。町史の記述では馬が通れる道とありましたが、馬車が通れる道とは書いてないですね。地形図では道は滑らかですが、現地の地形はなかなかに険しいものでした。測量が少し粗いのが残念です。
2016-03-12
青森 竜飛岬への路 後編
写真点数が多いですが、なるべく削らずにいきます。
洞門と漁業集落の国道風景。
青森から竜飛まで津軽の東海岸には多くの社が点在します。ほとんどは通過しましたが、ここはピピッときたので行ってみると、庚申塚。横には天保十四年と彫られていました。
前編の油川から北上する松前街道は、三厩から海路で北海道へ向かっていましたが、三厩よりも西側にも街道に置かれる庚申塚がいくつもある。竜飛から小泊までは昭和に入ってから自衛隊が力技で国道を開削しましたが、それ以前に海岸沿いの交易ルートがあったのではないか、その痕跡を感じるために前編では竜飛岬の海岸に出てみたわけです。
アンコ餅で、餅の部分が薄くトロリと柔らかい感じです。その割に甘ったるくはなく、パンチの効いた特色はないものの、いくつでも美味しく頂けるお菓子です。1パック10個入り900円。バラ売りは無し。
厩石です。
義経寺に登る階段にも庚申塚。
義経寺。3度目の参拝です。
三厩に入ったところにも庚申塚。
バスを待つお婆さん。
結局、バスが竜飛を出る前の11時過ぎに義経寺まで着いてしまったので、そのまま三厩駅まで15kmほど歩きましたが、途中の何もない所はカメラを持ったままランニングでしたので、安易に私の行程を真似るのは危険です。もっとも、バスは手を振ればどこでも乗せてくれると思うので、気付かずに追い越されさえしなければバスが来るまで歩くという手はあります。
12時46分に三厩駅発。途中、八雲から長万部まで特急を使うために別に切符を買いましたが、青森から竜飛に寄って札幌まで3500円(18切符2300円+特急1200円)で札幌には0時近くの到着でした。
洞門と漁業集落の国道風景。
青森から竜飛まで津軽の東海岸には多くの社が点在します。ほとんどは通過しましたが、ここはピピッときたので行ってみると、庚申塚。横には天保十四年と彫られていました。
前編の油川から北上する松前街道は、三厩から海路で北海道へ向かっていましたが、三厩よりも西側にも街道に置かれる庚申塚がいくつもある。竜飛から小泊までは昭和に入ってから自衛隊が力技で国道を開削しましたが、それ以前に海岸沿いの交易ルートがあったのではないか、その痕跡を感じるために前編では竜飛岬の海岸に出てみたわけです。
アンコ餅で、餅の部分が薄くトロリと柔らかい感じです。その割に甘ったるくはなく、パンチの効いた特色はないものの、いくつでも美味しく頂けるお菓子です。1パック10個入り900円。バラ売りは無し。
厩石です。
義経寺に登る階段にも庚申塚。
義経寺。3度目の参拝です。
三厩に入ったところにも庚申塚。
バスを待つお婆さん。
結局、バスが竜飛を出る前の11時過ぎに義経寺まで着いてしまったので、そのまま三厩駅まで15kmほど歩きましたが、途中の何もない所はカメラを持ったままランニングでしたので、安易に私の行程を真似るのは危険です。もっとも、バスは手を振ればどこでも乗せてくれると思うので、気付かずに追い越されさえしなければバスが来るまで歩くという手はあります。
12時46分に三厩駅発。途中、八雲から長万部まで特急を使うために別に切符を買いましたが、青森から竜飛に寄って札幌まで3500円(18切符2300円+特急1200円)で札幌には0時近くの到着でした。