大した成果は無かったので出すかどうか迷いましたが、「道以外に遺構が無い事を確認した」という記録もあっていいのかなと思い、一応出すことに。
探索対象ですが、大正6年測図、昭和10年修正の「銭函」。緑の線が今回の実踏部分。
この時代は手稲山に登るという事がさほど重視されていないのか、最も古い登山道は右下の手稲温泉から尾根伝いに急登する厳しいルートで、その後に実線で描かれたのがこの鉱山への道。
等高線の線形からもうかがえるように、測量の精度が現在ほどの水準ではなかった時代というのと、勾配など関係なく一直線という道の線形、現在の地形図には点線すらない、という事から、本当にこの位置に道があったのか、という疑問。そして、鉱山への古道を見つけたなら沿線に何らかの遺構はないのかという確認。その辺が課題になります。
期日は昨年末の28日、この冬初めての久々の探索で、まずは軽くウォーミングアップという事で出ました。こちらがログになります。
稲穂地区から自然歩道を横断して山に入り、古道の疑いがある地形図の点線道へ。この道は途中まですでに踏破済みで、実線で描かれている道の入り口付近は冬でも除雪されて管理されているので近づかないようにしてます。
点線道に入りました。車1台幅あるかどうかくらいが正面真ん中まっすぐに。
この辺は道であることが分かりやすい。
地形図での廃道末端を100mくらい過ぎたあたりか。写真の雪の白黒の境界ラインを見れば分かりますが、地形的にはかろうじてまだ道。この先は。
すぐにロスト。手前は少し低くなっていて小川の湿地のよう。写真は拡大しないと分かりませんが、奥の方にピンクテープがあり、右手を迂回して進む道筋があるようで。
この写真にはピンクテープが複数写ってます。今までのような明確な道の線形はなし。
紅白のポールが立った取水井のようなものがあり、ピンクテープは確たる道の線形がないまま現在の車道方向へ斜面を登って行ったので、私は逆に右手にルートをとって、見落とした古道がないか左右に振りながら登っていくことに。
何もないまま車道へと到達。左手の土手がそうで、車が行き交っています。車道沿いに少し登って調べてから下山に移ります。
軽川沿いの車道旧道は高低差があるので斜面を降りながら合流を考えていた最中に廃道を発見。写真中央から奥へ、その後は緩やかに右へカーブ。ログでの緑線部分に入りました。
写真中央。直線に切れ目があります。これが鉱山古道。
まだ一直線に続きます。ログでブレているのは倒木を避けた個所や、小木が林立して道をロストして進んだ部分とか。
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