2022-09-25

茨城 日立鉱山 探索編

茨城県日立市の日立鉱山にまつわる探索編です。
日鉱記念館への行きの道中で周辺を観察し、記念館では閉館までの45分以内に探索に必要な情報収集やマップを記録、そして帰路で探索という流れ。

まず序盤。鉱山街の手前になりますが、「一の鳥居」と小さい看板があった鳥居。


橋を渡っても突き当りで何もなく、上流側に踏み分け道があるものの川のある左手がストンと落ちる地形で足元が細く柔らかくて気を抜くと転落しそう。リスクの割にリターンが見込めないので撤退。


そして進んでいくと、県道の川の対岸に、崖にハマったような堂を発見。
これが赤澤不動尊の本来のもので、ここから鉱山街が始まる。




黄テープで封鎖されていたので、入ろうと思えば簡単でしたが、ここまでにしました。


これは上流側に建て替えされている堂の解説ですが、写真に一部移っている真新しさから言っても、昭和56年に改築されたのは上記の元々の堂でしょう。


左が不動尊で、右へ上がる階段が不動滝社宅への道。マップでは鉱石は索道を使っていたようなので、この辺には元々車道レベルのものは開削されてなかったのでしょう。

この道をたどっていければいいんでしょうが、自転車な上に藪も濃い。注視しながら県道を進みます。
途中にあった遺構。




これは新しい方の不動尊の背後にあったクランク状の通路。コンクリートを使っていても車道幅までは確保しなかったという事か。


藪に完全に埋もれた形で鉱山街側への古い橋がいくつも渡っています。


不動滝か掛橋か正確な位置は失念しましたが、川と反対側の社宅への道。この埋もれ方では探索は容易ではありません。


掛橋役宅への分岐道を発見。閉鎖された道の割に舗装があってさほど荒れていませんが、Googleストリートビューによれば2013年頃まで「もとやま自然の村」というキャンプ場が奥にあった名残だと思います。キャンプ場の場所は大戦時の捕虜収容所だったそうです。
ちなみに日立鉱山は中国人の強制連行もあったので山域の随所に色々埋まってるそうで、現在も残る本山寺には無縁仏の卒塔婆が多数あるそうな。そんな所でキャンプねえ。








帰路での探索という事で夕刻だったので深入りできず、この辺で引き返しました。
と言うより、もう少しは行けたんだけどいくら舗装路でも奥まで行きたい気がしなかった。


お次はその上流側の本山小学校跡から。


ここは管理されてる可能性があるので不用意に入れず、県道からの撮影のみ。校舎本体はすでに解体撤去されています。


一本杉社宅の地区です。県道との間に藪の壁があるので、県道からではこのような広がりがあるとは思えません。




写真真ん中にコンクリートが残っています。










これは接近するまで分からなかった。

という事はと、さらに少し頑張ってみると、それらしきモノが。見た目より藪が深いのでここまで。


これは日鉱記念館近くになってからですね。


鉱山街の全貌を見る事まではできませんでした。藪も深すぎる。石灰山社宅の方は、入っていく道に会社の看板があったので管理区域だと思って入る事を考えませんでしたが、Googleストリートビューで見ることができ、現役の会社に上書きされて何も残っていないのが分かります。

当初は日鉱記念館だけ見て終わりのはずだったので突発的に始まった探索でした。

茨城 日立鉱山 日鉱記念館

茨城県日立市にある日立鉱山の日鉱記念館へ行ってきました。
いつもの事ながら事前によく調べる時間などありませんので、Googleマップでざっと見て、自転車ならすぐでしょ、と思ってしまいました。


ところが。市街地の辺りからすでにぐいぐい登っていく感じで、しかも路肩幅が無くて大型車も含めて交通量がある。安全のため、刈り払いされてなくて草木がせり出した歩道を自転車ごと体ごと草木を押しよけながら進む。麓の大工場群が切れて歩道が無くなり山道に入ると急カーブと勾配の連続で、自転車を押して進むしかない。

行きは周辺の観察の意味もあったのでそれで良かったんですが、路線バスがあったと後で分かり、行きは自転車を畳んでバスで登るのが最適解だったのでしょう。

日立駅に着いたのが午後2時過ぎで、日鉱記念館の受付終了は午後3時半、その15分前に着いたので、資料をゆっくり見ることはできませんでした。

これがいわゆる大煙突。現役管理敷地内なので接近はできません。




昔は奥の敷地内道路の方が主道だったようで。


県道脇の下にある巨岩の座禅石。車で走り抜けると分からないと思う。


で、到着しました日鉱記念館。








模擬坑道はあくまでも説明的に最低限の模型という感じで。



時間もないので館外に出ます。




当然ながら行動区域は制限。


その下に坑口。
























明治38年に日立鉱山開発の本部として建てた、旧久原本部。




社祖や物故従業員を祀る、塵外堂。


その奥にも平場が見られる。








駐車場の向かいにも坑口。


時間的にもこんなものです。奥の遺構も少しあるようですが、監視カメラもありますし、表立って動けるのはこれくらいでしょう。