2014-04-30

大夕張 水没

シューパロダムの話題は割と関心があるようで、先日の三弦橋の記事にはそこそこアクセスがありました。一方で、無茶をした人もいたようで、昨日行ってみましたら柵を越えて降りないようになどの注意書き看板と監視員が配置されてましたね。今は完全に水没して跡形もなくなってしまってますけども。

さて。今回もJR一日散歩切符と別料金の特急を使って朝9時過ぎに夕張入り。いつものように折り畳み自転車で10時前にはシューパロダムにて三弦橋水没を確認。上流方向へ移動します。水没するのは三弦橋だけじゃないんだぜと。

シューパロトンネルを出てすぐの展望所には結構入れ替わり車が止まって皆さん撮ってましたが、そこから300mくらい先の地点の方が、美瑛の青い池みたいな水没林もセットで撮れますよ。

 沈んでゆく元・国道452号。

 こちらは白銀橋。付け替えた新しい白銀橋は完成してましたが、監視員付きで立ち入り禁止でした。

その新しい白銀橋から1kmほど先か、旧国道との間に碑のある学校跡がありますが、そこの敷地を抜けて旧国道へ出るコースは”セキュリティホール”でございました。関係者なのか、しばらく碑のそばでたたずんでおられた方がいましたが、車を横付けにしてましたね。

私もそれにならって下道へと。昔の市街地で沈む境目を撮れました。もう少し早く来ていたら沈みかけた道路橋とか鉄道の橋脚も撮れたんですけどね。

キリ助、あぼん。

ちなみに、旭沢橋梁はまだ10m近くあったような感じでしたが、すぐ近くの新しい白銀橋との高低差を考えると、満水になっても水没するのかなぁという雰囲気でした。

さて。こんなもんだろうと引き返します。
夕張市街へと向かいたかったんですが、南大夕張駅跡でのんびり食事にしていたら10分差でJRに間に合わず、楽はできずに自転車でひたすら登っていきました。目的地は福住人車の跡。山の斜面に住居が密集していたんで、ケーブルカーがあったのです。


帰りがけに平和鉱のズリ山を撮ってみる。

とまあこんな感じで、午後4時半のJRで帰りました。温泉に入りたかったけど、最後の列車だと帰宅が遅くなるんで。

2014-04-09

かなやま湖 根室本線 旧線

南富良野のダム湖、かなやま湖。そこに沈んだ根室本線の旧線の跡を探ってみようというわけで。まずは歴史的背景から。1966年9月29日に金山ダム建設に伴って金山~東鹿越間が新線に移行。その間にあったダム湖中央に位置した鹿越駅が廃止され、新線の方には鹿越信号所ができ、それも後に廃止される。

JR18切符のラスト1回を使って行ってみました。東鹿越駅に11:52着。実は当初、旧線がどう走っていたのか全く知らなくて、昨年は幾寅から東鹿越まで自転車で走って廃線跡が無いか調べたりして、先日、車窓から東鹿越駅の金山側に跡があるのを見つけたので行ってみたと。古地図で机上調査してから来いよと突っ込みたくなる方もいるかもしれませんが。

旧線のラインが不明なので、湖岸も含めてチェックしながら金山方向へ歩きます。鹿越大橋の直前に旧線の橋脚がありました。50年もたつと地形も改変されるのか、ここから右の駅方向には路盤はすぐに消滅しますし、左方向には道路で寸断されてその先には明確な跡は無しと。

道路を渡ってその先には昔の展望所の跡が。夏場は藪に覆われてます。旧線のラインはこのすぐ向こう側を右から左へ湖に着水するように緩やかに降下します。

そのまま湖上の氷の上を真っ直ぐ進むとレンガの橋梁が。川を渡渉するのが面倒なのでそのまま上を通っていきました。時期と時間を選べば良い写真が撮れるかな?

その先の橋梁跡。路線のラインがうっすらと。

さらに橋梁跡。

川を渡ってからクレバスを足がかりに氷壁を上がってもう1枚と。気が緩んだんでしょうね。リュックは嫌な予感がして片腕通しておいたんですが、カメラケースがポロっと。スー・・・ぽっちゃん。下手に動くと自身も滑落するんで見送るしかなかった。

橋の上はヒビの入った氷のみなので上は渡れません。一歩で何とか渡れそうな間合いなんですが、リュックもあるんで万一バランス崩すと落ちるからと少し上がって川を渡りました。

水量が多いこともあって橋脚が水没してますね。路線跡はこの後、切り通しを右にカーブして湖の中央へ向かっていきます。この先、鹿越信号所跡まで湖岸付近をチェックして路線跡が無いことを確認しました。写真左手の土手部分が旧廃道で、そのさらに上方に現在の林道があり、そこまで上がってから進みました。

というわけで、あとは完全に水没部分となりますし、平地を走行していたんでたとえダムが完全に干上がっても明確な路線跡はほとんど出てこないと思います。

昔の旧線時代の写真を見つけました。こちらの2枚目が鹿越駅と思われます。3枚目が完成間近のダム内部を走っているもの。これで路線ラインがおおよそ想像できます。
http://sl-taki.blog.so-net.ne.jp/2010-02-12

鹿越信号所跡を午後2時過ぎに折り返し、3時過ぎの列車にギリギリ間に合ってそのまま帰りました。もう少し雪や氷が融けていると思ったんですけどねぇ。

[追記]
後日、旧版地図を閲覧してきました。「映像記憶」したものを手書きで再現したのでちょっと雑ですが、大きく外してはいないと思います。注目すべきは金山ダム堤体の位置にある隧道(トンネル)。大正時代の地図では隧道は無く、川に沿って下の方までカーブして回り道しています。路線の切り替えをスムーズに行うためもあって隧道の位置に堤体を作り、移行後に穴を埋めて運用開始したという事ではないでしょうか。また、大正地図には鹿越駅も東鹿越駅もありませんでした。

2014-04-02

ミニレポ: 余市 歌越海岸

JR18切符が足りなくなって(来週使いたい)、1日散歩切符があるだろうと思っていたら3月末までだったと分かって失神したエイプリルフールの朝。行き先も思い浮かばないので温泉だけにするかと思って引き出しを開けると、余市山道の探索時に拾った古地図が。気になっていたアソコに行ってみるかと。

昭和30年くらいまでの地図にはあるものの現在は消滅している余市の歌越。松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には「番屋有、大岩崩なり」とあり、アイヌの歌人違星北斗を輩出した違星家の漁場だった所だそうです。

JRとバスを乗り継いで「余市梅川車庫」で下車。養護学校と創価学会の間の道を海の方へと。しばらくは舗装されてますが、砂利道に変わり最終民家の後は廃道。道筋は川に並行してほぼまっすぐです。夏は笹などで激藪となって道が分からなくなります。一度、近くの山から見渡したことがあるもんで。
途中まで山が刈られていますが、その後は手付かず。狐が現れる。

ここが道の終点。この向こうは絶壁の崖です。古い廃車がありました。右手の方を下ると、真っ平らではありませんがそこそこの広さの台地が現れ、おそらくその辺が集落ではなかったかと。

これは終点左手の様子。川の流れのように凹んで曲がったラインが右から左へと続いてますが、こんな崖上にここまで削れる川が流れるわけはなく、これが古道でしょう。右でストンと消えているのは地滑り崩落でごっそり落ちて海岸に降りられなくなって集落が滅んだと推測。

これが歌越海岸。絶壁で降りられません。先へ伸びているのがオトドマリ岬。

道の終端右手の台地の方へ降りて崖上沿いに移動してみます。やはりここだけ木が薄くて、西蝦夷日誌の古道を感じさせます。

右手へ回り込んで向こう側からなら何とか降りられそうという箇所。それでもロープは要るでしょう。地形図と航空写真を見ると、もっと進んでシリパ岬の近くまで行けばもう少し傾斜の緩い降下ポイントがありそうです。 写真奥がそのシリパ岬。

海岸を見下ろしてもそれほどソソるものは見えなかったので、無理な降下はせずに引き返すことに。これは帰りの下り方向。夏場は道を見失いそうです。

検索してみると、昭和初期の余市新聞によると、シリパ岬と歌越の間のクヮチャライシに洞窟があり「鬼」と呼ばれた男が住んでいたそうな。いずれシリパ近くから降下に挑戦してみるかな。この古道と並行するようにもう少しシリパ寄りにも舗装市道から分かれる古道がありますが、夏場は踏み分け道程度の激藪で入り口に気づくのも難しいでしょう。

徒歩で余市駅まで行ってさっさと帰ってしまいましたが、何かあるんじゃないかとワクワク感があり、そこそこ満足しました。