【不定期更新になります】
当初はほぼ週1回の更新でしたが、ネタを意識すると縛られてしまうし疲れるので、
気が向いたときに撮ったものを1点ずつ出してく方向にしようかと。

2016/04/03

大夕張炭鉱の机上調査

「かなりの曰くつきだから行くな」というサイドエフェクト(カン)によって行かない事となりましたが、それは事実か? 何があったのか? 鵜呑みにはできない性格なので調べてみました。

まずは大正8年測図・昭和23年資料修正の「大夕張」。
出ているのはこの地形図だけで、少し時代が変わると跡形もなく消滅しています。道のほかに炭鉱軌道もあり、そこそこの規模の集落も形成していたようです。

そして、清水沢駅の写真展にあった資料で、これは大夕張炭鉱という名称だと分かります。紛らわしいですね。

 そこに展示されていた「清水澤駅史」の中の記述です。

他に調べてみても大体はこんな感じではないかと思われます。主夕張川にほど近い南大夕張側の福山坑。地形図にある3つの坑口のうち、南側のものでしょう。では奥地の2つは?

ネットで検索するとpdfファイルごと入手できますが、文芸思潮に掲載された田森龍「はじまり」より抜粋していきます。
 ・ 福山坑の北側十数町にある滝ノ沢上流に良質な露頭炭を発見した。そこを滝ノ沢坑として開坑した。
 ・ 福山坑付近に新たに錦坑を開坑し、これを中核とし主な施設を拡大した。更に炭層の探査の結果、明治四十四年六月滝ノ沢の北ポンウエンホロカベツの渓谷に新たに若葉坑を開坑し、八月には採炭を開始した。
これで3か所の名称が分かった事になります。

そして
 ・ 日露戦争から景気は次第に衰え明治四十年代は不況期に突入、増産で穴埋めしようと坑夫の大量増員を考える。
 ・ 炭坑夫の雇用状態は、劣悪。会社が何人人員が欲しいと言うと、親分たちは募集に出かけ、山に連れて来て自分の飯場に入れる。労務管理の一切は親分にあった。会社は誰が入った、出たと頭数を数えるだけで、面倒な方法は取らなかった。
 ・ 稼ぎに出た坑夫一人一日について出稼ぎ手当五銭を会社から貰う仕組みで、日常の飲み食いは飯場頭のさじ加減一つに握られていた。それ故に、飯場の者に対しての気合の掛け具合や、やきの入れようはすさまじかった。中間の搾取も思うがままで、儲けもかなりあった。
 ・ 飯場制度をタコ部屋制度とも言っていた。何故タコ部屋と言うかといえば、蛸の足のように死んでも直ぐに新しい足が生えて来るところから来ている。その名の由来通り、坑内事故で人が死ぬと何処からともなく人が連れられて来て、その亡くなった寝床で寝起きしていた。

過酷な現場の状況。
 ・ 勿論過酷な労働の中で脱走する者も少なくなく、捕まると見せしめに袋叩きに合いコンクリート缶に入れ放置し息絶える者は病死として連絡されていた。
  ・ 契約により、募集で来たものは、年季が明けるまで帰れない。岩見沢の周旋所から買われて来たものもいる。
 ・ 太陽が出ない内に出かけ、星を見ながら飯場へ帰るといった過酷な労働が続いていた。
  ・ 逃げる者もいるので、到着すると服は帳場(大番頭)に預けて真っ赤な腰巻と上衣一枚で仕事をする。北海道の開拓の土方や坑夫はみんなこうして働いていた。冬は寒さで人が倒れた事もあった。
 ・ 寝床は、板の間だった。それに掛け布団だけだった。枕は長い角材一本で、その上に頭を乗っけて寝る。飯を食べ終わると、観音扉を表から閉められて、かんぬきして錠を掛けてしまう。隣の幹部部屋では、寝ずの番がついていて、逃げ出そうとするものを見張っている。
  ・ 年季が明けて借金が無くなった者をなぁ、帳場が料理屋に連れ込むんだ。んで『今まで稼いでくれてありがとう』とご馳走するのさぁ。でもそんなことはありえないべさ。ご馳走する振りをして女郎と三日も四日も一緒に寝かせて、飯場で食べた事の無い、鳥の丸焼きや、銚子一本二十銭もするやつを飲まされるんだ。料理屋のおかみが勘定を持って来て見て驚くんだ。女の線香代、酒代もピンハネしているとは夢にも思っていないだろうに。そして、正体がなくなると元の飯場へ戻されて借金も増やされ働かせれるんだ。
 ・ 「おめぇら、こいつらをあのズリ山へ埋めてこい。もし息がまだある奴がいても全員埋めて来い。どうせもう使いものにならんべ」 数日後、大夕張炭鉱社の人扱い窓口に、先日十名が病死したと別所多次郎は報告した。大夕張炭坑社と人貸の間には、一線が引かれていた。炭坑社はただ、何人病死と人名帳に記するだけで後の処置は、飯場頭に全て任されていた。

その後ですが。
 ・ 錦坑と滝の沢坑を明治四十五年に中止
 ・ 大正五年一月二十四日。大夕張炭鉱株式会社は、債権者の三菱合資会社が時価以上の値によって鉱区、地所その他一切で百六十二万五千円の金額で大夕張炭鉱株式会社を買収することを決定した。
 ・ 買収鉱区は夕張郡登川村大字大夕張川字夕張山などの採掘権や試掘権で、譲り受けた建物は事務所八棟、社宅二十棟、坑夫長屋七十四棟、倉庫八棟、工場九棟でそれまでかなり大規模な採掘が行われていた事を見る事ができた。
 ・ 三菱社はさっそく改革に取り組んだ。松隈三郎は、労働時間は坑内実働八時間、坑外十時間、と制度を確立し、採炭充填二交代制、掘進の二、三交替(坑によって違った)仕操、修繕は三交替制で、女坑夫の新採用を見合わせ、だんだんと減らして行く事にした。(女性の坑夫がいたという事ですが、どんな扱いかは想像できますね)
 ・ 三菱に大夕張鉱山が渡った事で、坑夫たちは、涙を流しながら万歳三唱をした。そして三菱は同年一月、まだ開発が行われていなかった北部大夕張炭層調査を本格化した。

ざっとこんな感じです。なお、南部地区では「死人をポイポイ沼に投げ捨てていた」という話もありましたし、全体的な記述内容を考えると、ノンフィクションに相当するものと思われます。

歴史の表に出ない、語られない闇の部分。夕張に限った事ではないんですよね。

4 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

 大夕張は、私の故郷です。しかし、残念ですが、私の書いたものも、机上のものなのかもしれません。
 フィションと言ってしまえば、資料を見て想像を膨らませ書いたものですが、事実との交差で、ノンフィクションの色が出ていれば幸いです。
でも、色々な資料を読ませて頂きましたが、あの当時の炭砿当初は、女性も働いていた時代が、何処にでもあったかと思います。それに、飯場なんて言う物は何処にでもありました。
 まだ、私が大夕張に居た時代、三菱の会社以外でも請負会社で下働きしていた会社があったのです。それが、酷いもので、労働者に保険金を掛け名義を会社にしながら、炭砿で死亡すると、下請け会社に億金が、入るようになっていた。家族には、数百万位しか、やらなかったそうです。
 そんな事が、まだ僕らがあの町にいた時代に、あったのです。
幸いにして、私の父は、三菱でしたが。
 ご意見・感想と言うか、ありがとうございます。
書いて、食べていけないので、別な仕事を持ちながらの作業なので、正直しんどいですが、完結した時の達成感は、何よりも代えがたいものがあります。
 炭砿に興味あるようですね。それとも、大夕張にあるのでしょうか。
大夕張の事を言えば、友子の事も調べたいのですが、資料がありません。
残念です。以前、夕張の方の友子の生き残りと言う人には、会っているのですが。
 では、また。
何か、感じた事がありました、またメールでも下さい。

                                   田森龍

Ricky Huffman さんのコメント...

コメントありがとうございます。
炭鉱・鉱山にまつわる負の側面というものは、後ろめたさがあるのか歴史の表になかなか出てきません。関係者としては無かった事にして闇に葬りたいのでしょう。また、証言をできるような方はその過酷な環境の中ですでに命を落としたりしていますから、こうした資料・文献は非常に貴重な存在であると思います。特に、電子化したものであれば入手性も良いのでなおさらです。

私の興味は、特に炭鉱とか大夕張に限った事ではないのですが、何もしなければ忘れ去られ知ることもなくなる、かつての人の営み。偉業と言える事績もある一方で、このような負の側面にも目を背けずに思いをはせたい。
実際には、「負の現場」には行く事も困難で、行ったとしても”雰囲気”に当てられて入っていけなかったりもしておりますし、裏付けや証言が取れないので表向きには風景写真を出すだけになってしまいます。

例を出せば、仁木町銀山の長沢殖民地。耕作用の開拓地とは思えない山奥の斜面地に地名だけが残りますが、そこは働けなくなった鉱山労働者を送り込む”姥捨て山”ではなかったか。そこで何があったのかを知る資料や証言は無いと思います。大夕張炭鉱と同様に、私が踏み込めない場所の1つです。

田森龍 さんのコメント...

私も炭砿ばかりに、目を向けている訳ではありません。しかしながら、先人の偉業は残酷でもありましたが、当時の日本のエネルギーや技術発展と文化を築いた人たちなのです。出来たら私は、書くならそこに焦点を当てたいと考えています。勿論、地獄のような世界も盛り込み仕立てる事を忘れてはいけないと考えます。
 今回、私は「さっぽろ市民文芸」の作品募集に応募していますが、自由をテーマに、自由とは何なのか、自由を得る為に、人は何をし、何を考えて来たのかに触れ一つの答えを作る試みをしてみました。人によって自由の意味合いは、変わってきますが、余は自由とは、戦いの中で得るものであると言うのが、私の結論です。
 昔の人たちも、そういう意味では、戦いの中で自国の不自由さを解消しようとしていた。そこには、無力な人たちを犠牲にし人は、生きて来たような気がするのです。
 生きるためには、何が必要なのか。昔の人たちは、何をして来たのか。創作でも良い、考え付く事を何かに残すのも、今の我々の義務のような気にもなります。
 戦いでの戦死者の上に、勝利があるような社会は良いのか悪いのか、それともそれが当たり前なのか。貴方は、どう考えどう思うのでしょうか。現在もこれからも続くこんな社会に、貴方は未練がありますか?
 死は、誰もの足元にあるのです。人生は、それに対しての足掻きであり、苦しみなのかもしれません。
 詰まらいですね。長くなりました。「さっぽろ市民文芸」は、8月に結果がでます。
私のささやかな、戦いです。良い結果なら良いのですが、どうなんでしょうか。
 毎日、ネットを見ている訳ではありませんが、もし何かありましたら、送って下さい。
 

Ricky Huffman さんのコメント...

再度のコメントありがとうございます。
何をどこまで書けばと悩んでしまいましたが、ここで人生や自由を語るのはブログの趣旨や読者層から外れますし、しかし話を振られてしまったので簡単に。

事の善悪の基準は時代・場所・人により残念ながら絶対的なものは無く、移ろいゆく流れの中にあります。その流れの中で、各々が時には舵をとり時には身を任せる。それ自体には特に考える事も思う事も未練も無く。舵取りの意志はあっても大きな流れは変わらず、どこに流れ着くかは分かりません。

流される先が意に沿う天地であれば。願っております。

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